読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

金利がなんで許されるのかについてのメモ

いつもとだいぶ関係ないネタだけど、なんかたびたび忘れてしまうのでメモっておこうかと思います。

そんなにがんばって調べていないので、間違いがあったら有識者の方はやんわりコメントで教えてくれたりしてもらえるとうれしいです。


・何を忘れてしまうのか
大学生あたりに読んだ本(たしか、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神、だったかな。うろおぼえ。)に、「昔はキリスト教的に金利は否定されてたけど、トマス・アクィナスがokという解釈にした」というようなことが書いてあって、そのときは、へー、という以上の感想はなかったけど、まぁなんというか、自分わりと金融の制度とかそういうものに興味があるしそのあたりに近い仕事をしてるしで、このくらいは説明できるようになってていいんじゃないかということで、なんで金利は倫理方面の人たちでokということになったのか忘れないようにしておきたいです。


・なんで今回思い出したか

「金利を設定するには、借入人の将来の返済能力を判断して決めるわけで、借入人の将来は神のみしか解らないので、金利は決めることが出来ない。つまり、金利を取ることは、神にしか出来ない行為を人間が行うという神への冒涜行為という考え方が底流にある」

イスラム金融と金融工学 - O教授のブログ

を読んで。本体の洞察もさすがという印象ですが、まぁ現実は現実なので現実的に適切なオペレーションができれば神に挑戦しなくてもいいとは思ってます。フランク・ナイツがどうこう言われるとどうしようもないですが、僕くらいの凡人だったらCVaRとかで勘弁してくださいという感じです。どうでもいいけど、混合正規分布つかってるレポートもどっかにあった気が。預金の流動性の話だったからだいぶ質は違うと思うけど。まあそんな感じで。あ、もちろん興味はありますよ。

そうそう、イスラム金融って金利許されてないんですよね。ファイナンスリースとかが発達したのもイスラム金融のせいだとか。ほんとかよー、って感じです。ファイナンスリースを会計のコンテキストで初めて知ったときは、借金してもの買うのと何が違うのか理解に苦しんだ覚えもあり。税制詳しくないからなんともだけど、たぶん日本でもなんかいいことあるんでしょうね。

せっかくの機会なので、前に面白そうと思って買っていた、イスラム銀行とイスラム金融をぱらぱらと読んでみた。やっぱり金利の徴収はだめよ、ということになっていて、銀行業務での収益を分配したりするシャリーアという枠組みがあるらしい。収益の獲得のために努力することは否定されるというよりはむしろ奨励されていて、貨幣の時間価値だけを否定するモデルになってるっぽい。こういう制約があるので、イスラムの銀行はけっこういろいろがんばってるよう。というか、不確実性も否定されているので、デリバもそれをつかったヘッジもoutということになってるらしい(先渡しは金利ついてないのでよいらしい。概念的には先物は金利の要素があるし、outなのかな)。なにそれどうなってんの。いろいろ見てくとほかにもかなりきつい制約があって、appengineを思い出しましたw


・本題の、キリスト教のほう
まぁ多かれ少なかれ、金融の枠組みはアメリカ流だと思っていいと思うので(ロスチャイルドという説も・・・おっと誰か来たようだ)、気になるのはキリスト教方面の解釈です。・・・いや、僕は神道なので!

冗談はさておき、さすがに昔読んだ本を読みかえしながらはきびしいので、google先生に頼りました。世の中すすんでますね。実は前も思い出せなくてぐぐった記憶があり、そこから引用します。ほんと、人間てすぐものを忘れますね!

 聖書のはっきりした導きがなかったので、利息禁止の支持者たちはなんとなく気分で、固定金利での貸し付けはそもそもいささか「いかがわしい」活動だという考えに流された——これは多くの一般人にも共有された気分だった。立証責任は、利息を擁護する人々のほうにある、とかれらは論じた。利息を課することを認めると、少なくとも「社会的に」有用だということを証明できるだろうか? これは封建制の経済ではまるではっきりしなかった。当時の融資は消費のためで、生産のためのものじゃなかったからだ。社会コストのほうは、もっとはっきりしていた。複利計算のとんでもない数学は、社会的な不平等を加速して、自由な人々を年季奉公的な隷属におとしめ、その強制のために役人の手もわずらわせるし、それがもたらすメリットといえば、単に消費を奨励するだけ(消費はそもそも道徳的に疑わしい活動とされていた)。だから利息のつく負債は不自然なだけでなく、道徳的にも好ましくない、社会的な退廃をもたらす制度なのだった。


(中略)


 トマス主義者たちは、この議論に二つ抜け穴を用意しておいた。もしお金の貸し手がリスク (dammum emergens) を負うなら、あるいは貸すことによって別の利益のあがる機会 (lucrum cessans) を見逃している場合には利息は許される。前者の抜け穴は、固定金利の債権保有者と、利益分配型(Commenda)のパートナーシップへの投資家とを区別するためのものだった。でも、あらゆる融資では、常に最低でも必ずデフォルトのリスクがあるわけで、そうなると厳密にいえば、利息はどんな場合にでも認められることになる。第二の抜け穴は、インフレ期(貸し手が明らかに損をする)に利息を課すのを許すよう意図されたものだった。でも、これをあっさり濫用する可能性はずっと大きい——「別の」儲かる資本の使い道があるという議論は、あらゆる場合に主張できるものだからだ。

古代派とスコラ学派 (The Ancients and the Scholastics)

dammum emergensがなんであるか理解できるほどの教養はないのですが、シンプルに不確実性であるとするならば、金融工学が下敷きにしている枠組みとそれほど差異はないですね。クレジットの話題がすでに意識されているのも示唆的。まあ当然と言えば当然か。


ということで、それほど奇を衒った結論にはならず、もともとは利息は禁止されていたけど聖書にはきっちり書いてなくて、様々な不確実性があるので対価としての利息が許容されるような解釈になった、という整理で良いのかなと思います。


これくらいの内容を忘れてしまうのは、きっとここにたどり着くまでの議論が難しいからだとおもいます!まぁ宗教的にどうだというのは、その宗教の人しかわかんないだろうし。

なんでキリスト教はokになったけどイスラム教はokじゃなくていろいろ工夫をせざるを得ない状況なのか、昔からあんまり考え方変わってないのね、とかいろいろ面白そうな話題もありますが、あまり困ってないので考えないでおきます。